光秀の城  2006/4/17

バイク仲間に教わって 桜の巨木を求めて 兵庫県篠山市まで。
目指す桜は 篠山市郊外の般若寺という地名の場所にありました。

その手前の国道沿いは「八上」という地名。

歴史好きの人ならご存知かもしれませんが この付近には戦国時代の頃 地元の武将波多野氏の城 八上城のあったところです。

これから行く般若寺という土地も かつて般若寺城という城がありました。
篠山川にかかる「八幡橋」のたもとにその桜はありました。

桜のそばにおられた地元に人にお聞きすると 桜は樹齢120年くらいのソメイヨシノ、地元の人に愛される 名物桜なのです。

たしか 普通ソメイヨシノの寿命はもっと短く 70〜80年くらいだと聞いています。

川の堤に堂々とした姿で その桜はありました。

まさに今 満開。

ピンク色の花びらは風に揺れますが まだ枝にしっかりとしがみつき 散る気配がありません。 


川面を望む堤防上には 桜見物の人が 入れ替わり立ち代り訪れます。
昔ここ 般若寺にあった般若寺城と 近くの八上城には 悲しい歴史があります。

 桜の生まれるずっと前 戦国時代の天正のころ 天下獲りの覇業をもくろむ織田信長は 波多野氏を配下に治めようとしますが 波多野氏はこれを拒否します。

彼の一族や連合軍は丹波 丹後 摂津 但馬など 四十あまりの支城を従え なかなか意気盛んで その本家の城が この土地にあった八上城でした。

そして八上城の川向いに 八上城を攻めるため明智光秀が築いた砦が 般若寺城なのです。

信長は明智光秀を使って この八上城を攻めますが 難攻不落を誇った八上城に篭った波多野氏は これに屈せず 戦局は長引き 明智光秀は攻めあぐねた末 自分の母(一説には養母とも伯母とも言われています)を八上城に人質として送り かわりに城主 波多野氏を呼び出して 和議を申し込みます。

波多野氏は安土の信長の下に案内され 明智光秀は和議のお膳立てをしますが 信長は光秀の骨折りを無視して 波多野親子を殺してさらし者にしてしまいます。

つまり織田信長と その配下明智光秀は だまし討ちをした格好になったのです。

そのため 八上城に残された 明智光秀の母は 八上城に残った敵方の武将に はりつけにされ惨殺されてしまうのです。

明智光秀はこのとき 織田信長の非情さと部下を粗末にするその所業に 憤りを覚え恨んだといわれています。

一般に 光秀が信長を滅ぼそうと決意したのは このあと安土城での家康饗応の一件だといわれていますが 母を見殺しにされ 約定を無視して守らない この信長の身勝手さを憎んだこの時こそ 主殺しを思いついた最初だと私は思います。

この桜の後の 川を隔てた向こうに見える山が 八上城の跡ですが 波多野氏が滅んだ後は 城の石垣その他 建物の材料は 近くの平城 篠山城の建築材料に使われていて その痕跡はほとんど残っていません。

明智光秀は 当時の武将としては珍しく 教養が豊かで礼儀正しく品行方正(側室を持たず妻一人を大事にした)な文化人だったと伝えられています。
有職故実にも長けており 品格の高い武将でもありました。

古い権威をなによりも大切にし守ろうとした光秀にとって これを踏みつけにし ないがしろにした信長を どうしても許せなかったのか または肉親を見殺しにされ やがては自分も使い捨てにされ 見殺しにされると思ったのか、この時代の人達も そして後世の我々にも 彼の気持ちは解らないままなのです。


光秀が直接治めた土地 福知山などでは 光秀は領民に慕われていて いまでも回向する人が多いと聞きます。
さて そんなことを思いながら桜を眺めていると 春の日はまだ短く冷え込んできました。
来年の再会を楽しみに今年はこれで引き上げることにしましょう。
けなげにも枝一杯に花をつけた桜に 乾杯!

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